こんにちは。今回のブログは都夏晃太が担当させていただきます。
前回のブログでは、時間の流れとお芝居について、せんりさんが書いてくださいました。
自分の体で感じたことに重きを置いて、せんりさん自身の感覚を柔らかく言葉にして表現されています。
まだお読みになっていない方はぜひそちらもご覧ください。
さて、せんりさんは自分の感覚の話をされていましたが、一方の僕はというと自分の感覚だったり、センスといったものに自信がありません。
そしてその自信のなさを覆い隠すように、いつもあれこれと頭で考えます。
これがなんとも厄介なもので、特にする必要のない思考を繰り返して散々脳みそを酷使した挙句に、他の誰かの感覚ベースのサラッとした発言に打ちのめされるなんてこともしばしば。
なんとも燃費の悪い頭の作りをしています。中古のシトロエンみたいな頭なんですね。
しかし、散々脳みそを酷使して産み落とされた思考の断片どもをほったらかして腐らせるのもどうも可哀想な気がするので、この機会に供養してあげようかななんて思っています。
お付き合いいただけますと幸いです。
日本という国の文化は、不変で絶対的なものに美を見出すよりも、移ろいゆくもの、衰えゆくものに美を見出す文化のように思えます。
鴨長明は方丈記に「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。」と記し、人の人生の儚さを謳い、兼好法師は徒然草に「散りしをれたる庭などにこそ見どころ多けれ」と記し、花の散ってしまった後にある美しさを讃えました。
明確に分かれた四つの季節を移っていく気候ゆえのことのような気がしますが、何かが一つの形を保ち続けることよりもさまざまな形に移ろっていく様の中に美を見出すのです。
こうした日本人の美的感覚は、演劇との親和性がすごく高いように感じられます。
演劇は基本的に舞台上でお客さんに向けてなんらかの形を提示することになりますが、その形は上演ごとに異なりますし、同じ演目同じキャストであっても全く同じ舞台にはなり得ません。
また、上映された時のエネルギーや、客席と舞台上が一体となって作り出す空気感も含めた芸術なので、映像や台本で見返しても本当の意味でもう一度同じ体験をすることはできません。
それゆえに、舞台上で提示された芸術としての形は、終演してしまえばもう同じ形を留めおくことができないわけです。そして、観た者や演じた者、様々な形でその作品に携わった者の心の中で、その作品の形は一つの形を保ち続けるわけではなく、時間経過や考え方の変化などのさまざまな要因によって形を変え、場合によっては消えていきます。
こうした舞台演劇というメディア特有の移ろいには、ある種の儚さがあります。その儚さが、日本的な美意識とリンクするような気がしてしまうのです。
移ろいの中にその個性を見出すメディアである舞台演劇はもっと日本人に馴染んでも良いはずだと、そんなことが頭の中をぐるぐるしていました。
「芸術は爆発だ」という言葉でお馴染みの岡本太郎は、彼の作品が「美術」と呼ばれることを嫌ったそうです。
彼に言わせると、「美術」という言葉にはそのものを「保存する」ということが含意されており、彼にとって一番重要なことはその作品によって何かしらかが喚起される体験自体であって、そうした体験の喚起が失われないのであれば、作品そのものが保存されようがされまいがどうだっていいわけです。
彼は舞台演劇に携わった人間ではありませんでしたから、彼にとっての「体験」とは作り手としての「体験」だったと思います。
しかし、移ろいの中にあるメディアである舞台演劇は保存の対極にあると言えますし、その「体験」の対象を観る者へと拡大することができると思います。
映画や絵画といった芸術作品と違い、舞台演劇はひとたび終演してしまえば、作り手はその作品を移ろいの中へと手放すしかなくなります。
しかし、消極的に手放すしかないわけではありません。
そこで喚起される体験が観る者のなかでどう移ろうのかを想像しながら積極的に手放すことはできます。
僕は、そんな舞台を花色もめんで作っていきたいと思っています。
11月30日から始まる本公演「バビロンシティ~瓶詰めの不安~」もそれ以降花色もめんとしてお届けしていく作品も、幕が降りた時点で形こそなくなるものの、足を運んでくださった皆様になんらかの体験を喚起させ続ける作品にできるよう精進いたします。
楽しみにお待ちいただけますと幸いです。
それでは今回はこの辺で失礼致します。
担当者:都夏晃太
東京都出身。2002年5月31日生まれ。
京都大学在学中、専攻は臨床心理学。
小さい頃から映画やテレビドラマが好きで、大学入学後に地元下北沢で見た舞台演劇の演出の豊かさやエネルギーに魅了され、役者を志す。
趣味はサッカー観戦、読書、音楽を聴くこと。
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