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執筆者の写真橙延実央

花色手記 - 2023.8-10 -

私はいつもブログを書くとなると1個書いては納得できず、1個書いては納得できずを繰り返して結局全部を提出してよかったと言われた方をアップロードしていただくようにしています。今この文章を書いているのもまたそのルートを辿っている最中で、これで2個目になりました。

講義のレポートは字数が埋まらずに三日四日もかけてPCにのめり込むのに、ブログは1ヶ月から2ヶ月ほど作業をしながらの中でちらりちらりと書き込んでいくから話の脈略がなくなるのだろうと、少し反省しています。


前回は健吾さんが過去と現在、そして未来への繋がりについて書いてくれていました。

努力とか信頼とか、そういう積み重ねてこそ効力を発揮するものは何かと「終わったこと」では済ませられないから厄介ですよね。

自分のミスや怠惰は自分の責任で拭い、そこからどういった姿勢で生きていくかということに「人との関わり」は尽きるなあと思います。


さて、10月に入りまして実習期間も終わり、座学の期間が始まりました。

私の大学は4月-7月中盤が座学、7月後半-9月が実習、10月-1月中盤が座学、1月後半-3月が実習という、4つのクウォーターと呼ばれる期間に分かれて授業や実習が行われています。

以前ブログを投稿したのが7月11日だったため、タイトルにもある8月-10月はほぼ実習にこの身を捧げていました。

今回履修した実習では「地域との関わり」みたいなものとすごく向き合うような課題設定であったり、ただそれだけを視野に入れていていいのだろうかと疑念を抱いたりするようなことが多く、東京一極化だなんて言葉を少し前までよく聞いていたけれど、なんだか「地域」へ向ける視点ばかり学んでいるなと感じます。

人間は生きていると、価値観や感性や思想なんて当たり前に1人1人違ってきて。

それはこれまで15年間過ごしてきたいろいろな学校でも思ってきたし、大学に入ってから学校以外の人間と接触する機会が増えたことでそれを実感することが増えたと思います。

各個人の意見の相違や、各個人が正しいと思うことの相違、各個人が何をどう信じているかの相違など。

芸術というものはその違いが大きく様々な観点で影響しているし、授業でもよくやることです。


人間は、事象に対して自分の見たいものを見たいように見る。


すごく簡単に、そしてストレートに言葉を選ぶと、自分の都合の良いように人間は情報を処理して解釈を施していくのだと、自分を含めて人間という生物はそういう傾向があると思います。

それは簡単で、基準が自分に置かれているから。

自分の信じる価値観や感性や思想、そこに経験なんかも混ざってきてそれが基準になっていく。

自分の基準で納得の行かないことを受け入れるのはそう簡単なことではありませんし、受け入れられなくても現実に起きていることは変わらないからこその回路なのではないでしょうか。

現代の情報社会において、様々な情報やその情報への反応を見ていると各個人の基準や考え方の違いみたいなものがよく見えるなと思います。

特に芸術というのは、自由度が高いものです。

だからたくさんの人々が自分の見たいように見て自分の思いのままに解釈をできるしその幅は広い。そして、多少作品に対しての議論を行うことはあるかもしれないが、どのような解釈も否定することはできない場合が多い。

なぜなら所詮娯楽であり、明確な答えが提示されないからです。

ただその中でも、人間は自分なりの答えを見つけていく。解釈。時によっては都合の良いように。

これが面白い具合に出るのが芸術だと私は思います。

最近の授業で芸術作品の価値について取り扱われた映画を途中まで見て、金の話だったり芸術というもの自体の話だったり、本当にわからないことだらけでした。

芸術というものに触れていて、「綺麗」「すごい」「かっこいい」だけじゃダメなんだという風潮があるように感じてすごく気持ち悪い。知識があったら作品に対しての理解度が高くなるからすごいとか、この作品の価値がわかるからすごいとか、どうして純粋に感じてはいけないのだろう。なぜ、知識やセンスがない人間みたいな感じにものを言われなければいけないのだろう。別にその楽しみ方をしてもいいのだけれど、なぜ他人に強要して来るのだろうか。

こんなんだから機会と感性は押さえつけられていって死んでいくのだ。

知識がなくても芸術を楽しんでいいだろう。

センスの良し悪しなんて結局1人1人の中の基準で決まるのだ。

才能やセンスがあるとか、凡人や普通だとか、センスや才能がないだとか、一体何の基準で誰が決めているのでしょう。

これは芸術家やそれを見る人間というか、そもそも人間に対して、になるかもしれませんが。

それだって結局誰か一個人の基準でしかないわけで、強要するものではないと私は思うのです。

自分の考えや感性への同調や理解の強要がどれだけ人間から機会や感性や自分で考えるということを奪うことなのか、私たちはもっと考える必要があるのではないでしょうか。

かといって学校教育、特に義務教育は悪ではないし必要なものだと思います。

何が正解で何が間違いなのかなんて、誰が決めたんですか?

数学や物理などは正解がしっかり存在するけれど、先に出した芸術や人間のことは正解なんてないと思うのです。

倫理を学んでいて、宗教を学んでいて、私には納得のいかないことも「そうだ」とされていたり、納得することもあったり、私には納得がいくことも「そうじゃない」と思われていたりするわけで。

人間は情報に対して、芸術に対して、人間に対して、理想や価値観を持つのは素晴らしいことで、あなたの思うように捉えたらいい。ただ、強要というのはあまりにも敬意が欠けている行為だと私は考えるのです。

人間という生物は所詮、集団で存在しても完全には分かり合えないもので、そのために支配がというものが生まれていったのです。

私が最近この社会をふらついていて感じたことでした。


 

担当者:橙延実央



2003年生まれ、宮城県出身。 2011年、東日本大地震被災直後に劇団四季「ユタと不思議な仲間たち」を観劇し感銘を受け、演劇に興味を持つ。 高校時代に演劇を始め、2019年宮城県高校演劇コンクール東部地区にて大会最優秀賞、

中央大会にて優秀賞三席、個人演技賞を受賞。 また、「0から始める演劇プロジェクト」を立ち上げ、演劇経験者や未経験者を集めて作品制作を行う。 現在は、関西を中心に役者として活動中。

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